柿澤勇人さんが俳優として活躍するまでの道のりは、
決して平坦なものではありませんでした。
家族の反対を乗り越えながら劇団四季へと入団し、自らの意志で舞台の世界へと足を踏み入れました。
今回は、柿澤勇人さんの波乱に満ちた半生を振り返ります。
柿澤勇人はサッカー選手を目指していた
柿澤勇人さんは、幼い頃からサッカーに熱中し、将来プロのサッカー選手になることを夢見ていました。
東京都立駒場高校の保健体育科に一般入試で入学。
サッカー部に所属することで夢に向かって努力を重ねました。
しかし、高校のレベルの高さに直面し、プロの壁の厳しさを痛感することになります。
柿澤勇人 劇団入りを祖父が猛反対
高校1年生の時、柿澤勇人さんはサッカーの道を諦める決意をし、人生を変える出来事に出会いました
それは劇団四季のミュージカル『ライオンキング』を観劇したことでした。
その舞台に強く感動し「シンバをやりたい」と強く思うようになり、
俳優としての道を歩みたいという新たな夢を抱くようになりました。
俳優を志すことを決めたものの、家族の反応は厳しいものでした。
特に祖父からは「サッカーで日本代表になるよりも難しい」と猛反対を受けました。
しかし、柿澤勇人は「2年間だけ時間が欲しい。結果が出せなければあきらめる」と家族を説得し、舞台芸術学院の夜間部に入学。
高校に通いながらミュージカルの勉強を始めました。
柿澤勇人 劇団四季の狭き門を突破
柿澤勇人さんは、家族を説得し演劇の道を進む決意を固めた2007年に、劇団四季の研究所のオーディションを受験。
倍率100倍以上という難関を突破。見事合格しました。
これが俳優としてのキャリアの第一歩となり、本格的に舞台の世界へと飛び込むことになりました。
柿澤勇人の祖父と曾祖父は人間国宝
柿澤勇人さんが芸能の道を歩んだのは、決して偶然ではありませんでした。
祖父・清元榮三郎は三味線奏者、曾祖父・清元志寿太夫は浄瑠璃の語り手であり、
ともに人間国宝に認定されている芸能一家の出身です。
しかし、彼は伝統芸能ではなく、自らの道としてミュージカル俳優を選びました。
まとめ
柿澤勇人さんは、幼少期にはプロサッカー選手を目指しながらも、高校で挫折を経験し、その後演劇の道へと進みました。
祖父の猛反対を受けながらも家族を説得し、劇団四季への入団を果たすなど、強い意志と努力によって俳優としての道を切り開いてきました。
芸能一家に生まれながらも、自らの夢を追い続けた彼の人生は、多くの人にとって大きな刺激となるでしょう。
