明石家さんまの知られざる過去…母の死…そして引退を考えた弟の自殺

明石家さんまさんは、その明るいキャラクターからは想像しにくい、波乱万丈な人生を歩んでこられました。

幼少期に母親と弟を亡くし、さらに自身も日本航空機の事故で生死の境を経験されたことがあります。

これらの経験から生まれた「生きてるだけで丸儲け」という言葉は、さんまさんにとって非常に重みのあるものです。

明石家さんま 幼少期の母の死

さんまさんは、1955年7月1日に和歌山県東牟婁郡古座町(現・串本町)で生まれました。

しかし、3歳のときに実母を病気で亡くされています。

当時の日本では結核が主要な死因の一つであったため、実母の死因として結核が考えられますが、詳細は公表されていません。

明石家さんま 弟の自殺

小学校高学年の頃、父親が再婚し継母には連れ子がいたため、年の離れた弟ができたことを、さんまさんは喜んでいました。

しかし、さんまさんの弟である杉本正樹さん(当時19歳)は、1983年4月2日、奈良市の実家で発生した火災により亡くなりました。

当初、火災は事故と考えられていましたが、警察の調査により、弟さんが全身に灯油を浴びて火をつけた焼身自殺であると発表されました。
弟さんは高校卒業後、実家の工場を手伝い、将来は家業を継ぐ予定でしたが、周囲には家業を継ぎたくないと話していたとされています。
さんまさんは、弟さんの自殺説を否定し「あいつは自殺するような人間やない。もし自殺するほど苦しんでいたら、僕にひとこと相談したはずや」と述べています。
この悲劇は、さんまさんの人生に大きな影響を与えました。
弟さんの死後、笑いを取ることが難しくなり、芸能界引退も考えたそうです。

しかし、同期のオール巨人さんの励ましにより、芸人を続ける決意を固めました。

明石家さんま 日本航空機の事故で生死の境

1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故に関して、さんまさんは当初この便に搭乗予定でしたが、テレビ番組『オレたちひょうきん族』の収録が早く終わったため、一便早い全日空機に変更し、難を逃れました。

この事故に関連して、坂本九さんなど多くの著名人が犠牲となりました。

明石家さんま 義母との関係からお笑いの道へ

継母は実の子供である弟ばかりを可愛がり、さんまさんと兄は疎外感を抱くことが多かったといいます。

しかし、このような家庭環境の中で、さんまさんは継母の関心を引くために毎日面白いことを考えるようになり、これが後のお笑いの道に進むきっかけとなったとされています。

明石家さんまの少年時代

さんまさんは、小学生時代にムササビを捕まえ「ムササビを捕まえた少年」として話題になったことがあります。

この時に捕まえたムササビは、出身小学校である奈良市立鼓阪小学校に展示されているそうです。

中学時代は相撲大会で2位になるなど、運動神経も優れており、高校時代にはサッカー部で活躍されました。

明石家さんま 落語家への道

高校3年生の時には、笑福亭松之助師匠に弟子入りし、芸能界への道を歩み始めました。

師匠のもとでの修行は厳しいものでしたが、さんまさんは「人生勉強のほうが多かった」と振り返っています。

まとめ

さんまさんは「俺は幸せな人を感動させたいんやなくて、泣いてる人を笑わせて幸せにしたいんや。これが俺の笑いの哲学や。」と語っています。

波乱万丈の人生は、さんまさんの「生きてるだけで丸もうけ」という人生観にも影響を与えたと考えられています。

また、さんまさん自身も「慌てた人生。生き急ぎ人生」と語っており、その言葉からも彼のこれまでの歩みの激しさが伺えます。

トレンディー壺
これらの経験を経て、現在の明石家さんまさんの明るさや人間味が形成されているのかもしれません。