保科有里さんは、OL時代にテレビ朝日系『全日本ノンプロ歌謡大賞』の本選に出場し、その実力を高く評価されて大手プロダクションからスカウトされました。
しかし、スカウトの話は消滅してしまいます。
その後、歌を極めて自分の未来を切り開くことを決意し、27歳で上京することを決めました。
今回は、保科有里さんがどのようにして困難を乗り越え、歌手としての道を切り開いたのか、その歩みを詳しく紹介します。
目次
保科有里は借金の影響で大手プロダクションからのスカウトが消滅した
保科有里さんは、『全日本ノンプロ歌謡大賞』本選での活躍がきっかけとなり、保科有里には大手プロダクションからスカウトの声がかかりました。
夢を実現する大きなチャンスでしたが、当時家庭の借金問題を抱えており安定した収入を必要としていました。
「借金があるのでお給料が欲しい」と伝えたところ、その発言が原因となりスカウトの話は消滅してしまいました。
夢を目前にしながらも、それを掴むことができなかったこの出来事は大きな試練となりました。
保科有里は生家を失い決意を固めた
保科有里さんは、スカウトの話がなくなったことに加え、家庭の借金問題がさらに深刻化し、ついには生家を失うこととなります。
人生のどん底とも言える状況に追い込まれたですが、ここで「自分の力で歌の道を切り開くしかない」と強く決意します。
その後27歳で上京し、作曲家の三木たかし氏に師事しました。
1993年には「神無月に抱かれて」でデビューを果たし、その後も幅広いジャンルで活躍しています。
保科有里はデビューしたものの当初は演歌を歌っていなかった
保科有里さんは、デビューして1年後に師匠の三木の元を離れ、芸能事務所に所属しました。
歌謡曲からジャズまで幅広く歌い、CMやテレビ、ラジオ、ホテルラウンジ、ライブなどで活動していました。
演歌歌手と紹介されることが多かったものの、本人は演歌を歌っていないと明かしています。
2008年に、知人のディレクターの紹介で「夢グループ」社長の石田重廣さんと出会い、同グループへ移籍しました。
その後、「夢のスター歌謡祭」に出演し、全国各地を巡るようになりました。
保科有里は夢グループの社長・石田重廣の愛人ではない
保科有里さんと夢グループの石田重廣社長は、長年にわたりビジネスパートナーとして活動しています。
特に、夢グループのCMでの共演が注目を集めています。
CM内での親密そうなやり取りから、「愛人ではないか」との噂が立つこともありますが、保科さん自身はこれを明確に否定し、「ビジネスパートナー」と述べています。
また、保科有里さんは「『愛人』という本を出しているように、ネタとして扱っています」と述べています。
まとめ
保科有里さんの人生は、決して平坦な道のりではありませんでした。
大手プロダクションのスカウトを逃し、家庭の借金問題によって生家を失うという辛い経験をしましたが、その逆境を乗り越えて歌手としての道を切り開くことに成功しました。
27歳での上京という決断は、多くの困難を伴いましたが、その努力が実を結び、彼女は自らの夢を掴むことができました。
